一問一答クイズ [No.11490] | |
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制限時間 : 無制限 | ノーヒント! |
難易度 | ![]() |
出題数 | 12667人中 |
正解数 | 11559人 |
正解率 | 91.25%![]() |
作成者 | よっか (ID:812) |
最高連続正解数 | 0 問 |
現在の連続記録 | 0 問 ※ユーザーの方は記録が更新されます |
正解:④
解説:木戸孝允は生まれてから、数々の名前に変えてきました。和田小五郎、桂小五郎(15歳〜)、木戸貫冶、木戸準一郎(33歳以降)、木戸孝允(36歳〜)などなどです。
正解:②
正解:③
正解:③
正解:①
正解:④
正解:①
解説:生麦事件(なまむぎじけん)とは、1862年に薩摩藩の行列に乱入した騎馬のイギリス人を殺傷した事件。のちに薩英戦争にまで発展します。ちなみに場所は、現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦です。京急本線生麦駅近くに事件の石碑があります。
正解:②
正解:①
正解:②
正解:①
解説:高杉晋作、伊藤博文、井上馨は、長州藩の出身です。他には、木戸孝允(桂小五郎) 、山縣有朋、吉田松陰、井上馨など、たくさん名を残した方がいます。
正解:徳川慶喜
解説:四賢候は徳川慶喜でなく、島津久光を入れた4人です。
正解:④
正解:②
解説:正解は虎千代です。ちなみに虎寿丸は島津義久、犬千代は前田利家、奇妙丸は織田信忠でした。
正解:④
解説:長野県長野市の犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)に囲まれた三角地帯の地名をいいます。1553年〜1564年までの12年の間に5回戦いましたが、決着着かぬままに終わりました。
正解:武田信玄
解説:今川氏と北条氏は同盟を結び、武田信玄を苦しめようと塩の供給を経つ戦略に出ました。海に面していない武田信玄のいる甲斐の国で非常に苦しい状況となりました。その時、塩を送って、信玄を助けたのが敵対関係にあった上杉謙信です。「敵に塩を送る」とは、敵対関係にある相手でも、困って苦しい立場にある時には助けてあげることの意味。しかし、この意味は後から作られた美談との説があり、真相はどうなのでしょうか・・・?
正解:①
解説:上杉謙信の血液型は、AB型だそうです。誓文(せいもん)の血判によって、判明しました。
正解:①
解説:上杉謙信が生涯信仰した毘沙門天(びしゃもんてん)の「毘」の文字を旗印と掲げました。謙信は、自らが毘沙門天の生まれ変わりと信じていました。ちなみに毘沙門天(梵名:ヴァイシュラヴァナ)は、仏教における仏で四天王の1つの武神。
正解:④
解説:上杉謙信が生涯の中で、虎千代(幼名)→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→不識庵謙信(法号)の順で改名しました。
正解:長尾為景
解説:長尾 為景(ながお ためかげ)は、越後の戦国大名で上杉謙信の父です。
正解:②
正解:④
解説:上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は、数多く存在するようです。女性説は、その中の1つです。
正解:③
解説:関東管領(かんとうかんれい)とは、南北朝時代から室町時代にかけて室町幕府が設置した鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐するために設置した役職名のことです。
正解:織田信長
解説:1577年、加賀国(石川県南部)の手取川で上杉軍(20,000人)と織田軍(織田信長、柴田勝家:48,000人)と戦いました。結果は、上杉軍が織田軍を撃破したとされています。
正解:②
解説:問題1 謙信公が上杉家の名跡を譲り受けたのは、1561(永禄4)年のことです。それまでは改名をせず長尾景虎と名乗っていました。 問題2 謙信公の死後、謙信公の甥である上杉景勝公と関東の北条氏の息子である上杉景虎公が、戦を始めました。結果、上杉景虎公は敗北し、鮫ヶ尾城で自害しました。 問題3 川中島の戦いは5回中4回目が最も激戦だったと言われています。両軍ともに戦略を尽くしましたが、引き分けに終わりました。