一問一答クイズ [No.11552] | |
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武田信玄検定 より 甲斐の戦国武将・武田信玄に関する出題です。みなさんの挑戦をお待ちしています! | |
武田信玄の幼名は、次のどれでしょうか? | |
制限時間 : 無制限 | ノーヒント! |
難易度 | |
出題数 | 3243人中 |
正解数 | 2257人 |
正解率 | 69.6% |
作成者 | 諏訪さま (ID:805) |
最高連続正解数 | 0 問 |
現在の連続記録 | 0 問 ※ユーザーの方は記録が更新されます |
正解:武田信虎
正解:④
解説:兵法書「孫子(そんし)」は、中国春秋時代の思想家・孫武(そんぶ)が書いたとされる書物。中国の代表的古典とされる七大兵法書の1つです。
正解:②
正解:③
解説:躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)のトイレは、ひもを引いて鈴を鳴らすと係りの者が水を流すという水洗トイレでした。その水は風呂の残り湯を使っていたといわれています。さらに広さが6畳もあり、机もあったというから驚きです。
正解:③
正解:③
解説:1573年、三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、現在の静岡県浜松市で起こった戦い。三方ヶ原台地にて武田軍(27,000人)と徳川軍(11,000人)の間で行われました。武田軍の背後を突こうとした徳川側の読みは外れ、わずか2時間で大打撃を与えられ、徳川家康は敗走して浜松城に命からがら戻りました。この時、家康は恐怖のあまり馬の上でおもらしをしたと言われています。ちなみにこの時の失敗を反省して絵師に書かせた家康の「しかみ像」はとても有名な絵です。
正解:①
解説:武田信玄の軍旗に書かれている風林火山の「疾如風徐如林侵 掠如火○○如山」。これは、中国の兵法書「孫子(そんし)」に記された「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山」をアレンジしたものです。
正解:④
解説:恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院です。 武田信玄が菩提寺(ぼだいじ)と定めた寺です。武田家が滅亡して織田信忠軍により寺の焼き討ちにあった時に燃える山門の上で住職の快川紹喜(かいせんじょうき)が言った「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」はとても有名です。
正解:①
解説:上杉謙信が正解です。甲斐の国は四方が山に囲まれ、海に面していないために塩が取れません。今川氏と北条氏の戦略により、甲斐の国へ塩を送るルートを経たれました。そこで、信玄を助けたのが長年のライバル上杉謙信です。「敵に塩を送る」には、いろいろな説がありますが「どんなに敵対していても、困った時は助け合う」といった良い意味があります。
正解:③
解説:新田次郎作 武田信玄 林の巻より
正解:④
解説:新田次郎作 武田信玄 風の巻より
正解:②
解説:新田次郎作 武田信玄 風の巻より
正解:②
解説:新田次郎作 武田信玄 林の巻より
正解:④
解説:1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家(前田利家、佐久間盛政)の戦いです。軍勢は、秀吉軍の50,000vs柴田軍の30,000。結果、秀吉が勝利して、「本能寺の変」後の信長後継者を決定付けました。ちなみにこの戦地は現在の滋賀県伊香郡の賤ヶ岳附近です。
正解:③
解説:豊臣秀吉は、木下藤吉郎→秀吉→羽柴秀吉の順で名前を変えました。
正解:②
解説:秀吉の妻・ねね(おね、ね、ねい)は、尾張国の杉原助左衛門定利の次女として生まれました。のちに高台院(こうだい いん)、北政所(きた の まんどころ)と呼ばれます。
正解:②
正解:小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)
解説:小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、1584年(天正12年)に羽柴秀吉と織田・徳川連合軍の間で行われた戦いです。戦力は、秀吉軍約110,000vs織田・徳川連合軍約18,000。結果は織田・徳川連合軍が優勢でしたが、秀吉が信雄に和睦を申し入れ、織田信雄がこれを受けたことにより幕を閉じました。
正解:①
解説:秀吉が関白になるために前関白だった公家の近衛前久(このえさきひさ)の養子(猶子)になりました。猶子(ゆうし)とは、養育の義務のない養子のことです。
正解:④
解説:サン=フェリペ号事件とは、暴風雨によって四国・土佐国の浦戸に漂着したスペイン船サン=フェリペ号の対処問題によって起こった出来事。秀吉は、船荷と乗員の所持金のすべてを没収しました。これに抗議した航海長の発言やポルトガル人のでまかせを聞き、キリスト教が布教を通じて、日本を植民地化しようとしている理解して、キリスト教の禁止に踏み切ったと言われています。ちなみにキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制「バテレン追放令」は、この事件の約10年前の出来事です。お間違えなく・・・。
正解:③
解説:秀吉の血液型は、残っていた遺品・血判状から判明しました。
正解:②
解説:豊臣 秀頼(とよとみひでより)は、秀吉が57歳の時の子供です。1593年(文禄2年)に大坂城で誕生しました。
正解:③
解説:1583年・賤ヶ岳の戦い→1584年・小牧・長久手の戦い→1586年・九州征伐→1590年・小田原の役となります。よって、一番後に起こった戦いは1590年・小田原の役となります。ちなみに小田原の役は、豊臣秀吉と北条氏政が戦った戦で秀吉の勝利となりました。