一問一答クイズ [No.11551] | |
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制限時間 : 無制限 | ノーヒント! |
難易度 | ![]() |
出題数 | 3128人中 |
正解数 | 2719人 |
正解率 | 86.92%![]() |
作成者 | 諏訪さま (ID:805) |
最高連続正解数 | 0 問 |
現在の連続記録 | 0 問 ※ユーザーの方は記録が更新されます |
正解:④
解説:信玄の幼名は「太郎」。「甲陽軍鑑」によれば、勝千代(かつちよ)と名づけた説もあります。信玄は、武田晴信(たけだ はるのぶ)→武田信玄(出家後・法名)と改名しました。
正解:②
解説:兵法書「孫子(そんし)」は、中国春秋時代の思想家・孫武(そんぶ)が書いたとされる書物。中国の代表的古典とされる七大兵法書の1つです。
正解:④
正解:②
解説:躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)のトイレは、ひもを引いて鈴を鳴らすと係りの者が水を流すという水洗トイレでした。その水は風呂の残り湯を使っていたといわれています。さらに広さが6畳もあり、机もあったというから驚きです。
正解:②
正解:④
解説:1573年、三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、現在の静岡県浜松市で起こった戦い。三方ヶ原台地にて武田軍(27,000人)と徳川軍(11,000人)の間で行われました。武田軍の背後を突こうとした徳川側の読みは外れ、わずか2時間で大打撃を与えられ、徳川家康は敗走して浜松城に命からがら戻りました。この時、家康は恐怖のあまり馬の上でおもらしをしたと言われています。ちなみにこの時の失敗を反省して絵師に書かせた家康の「しかみ像」はとても有名な絵です。
正解:不動
解説:武田信玄の軍旗に書かれている風林火山の「疾如風徐如林侵 掠如火○○如山」。これは、中国の兵法書「孫子(そんし)」に記された「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山」をアレンジしたものです。
正解:恵林寺
解説:恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院です。 武田信玄が菩提寺(ぼだいじ)と定めた寺です。武田家が滅亡して織田信忠軍により寺の焼き討ちにあった時に燃える山門の上で住職の快川紹喜(かいせんじょうき)が言った「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」はとても有名です。
正解:上杉謙信
解説:上杉謙信が正解です。甲斐の国は四方が山に囲まれ、海に面していないために塩が取れません。今川氏と北条氏の戦略により、甲斐の国へ塩を送るルートを経たれました。そこで、信玄を助けたのが長年のライバル上杉謙信です。「敵に塩を送る」には、いろいろな説がありますが「どんなに敵対していても、困った時は助け合う」といった良い意味があります。
正解:④
解説:新田次郎作 武田信玄 林の巻より
正解:①
解説:新田次郎作 武田信玄 風の巻より
正解:③
解説:新田次郎作 武田信玄 風の巻より
正解:碁石金
解説:新田次郎作 武田信玄 林の巻より
正解:④
解説:関ヶ原の戦いは、関ヶ原だけでなく日本全国で戦闘が行われました。その中でも大軍勢がぶつかった主戦場は、岐阜県不破郡関ケ原町にあります。
正解:①
解説:関ヶ原の戦いの合戦が行われたのは、1600年(慶長5年)9月15日です。
正解:④
解説:当日は目の前が見えない程の朝霧が出ていました。朝5時頃に全西軍が布陣完了、午前6時頃に全東軍が布陣完了します。しばらく両者にらみ合いをしていましたが、霧が晴れ始めた午前8時頃に井伊隊が西軍の主力である宇喜多隊に向けての発砲します。これにより戦いの火蓋が切って落とされました。
正解:②
解説:朝8時に戦いが始まりましたが、昼過ぎには東軍・徳川家康の圧勝となりました。
正解:③
解説:朝8時の戦闘から西軍の小早川隊15,000人の軍勢は、全く動きませんでした。ようやく動き出したのは、正午過ぎのことです。前々から徳川家康と内応していた西軍・小早川秀秋は、見方であるはずの大谷吉継に向かって戦闘を開始しました。この裏切り(寝返り)行為が勝敗を分けたと言われています。
正解:④
解説:9月21日に石田三成は東軍の追っ手に捕らえられます。石田三成、小西行長、安国寺恵瓊(えけい)と共に堺、大阪、京都と引き回しにされた後、京都の六条河原で斬首されました。
正解:毛利輝元
解説:東軍の総大将は徳川家康ですが、西軍の総大将は毛利輝元。石田三成は西軍の中心人物(参謀)です。
正解:③
解説:石田三成の旗印は、大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)、もしくは大吉大一大万(だいきちだいいちだいまん)です。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされています。
正解:③
正解:③
正解:脇坂安治
正解:④
正解:④
正解:徳川秀忠
正解:④