一問一答クイズ [No.11870] | |
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桶狭間の戦い検定 より 尾張の小大名であった織田信長の名を戦国の世に広めた戦。若き信長が大逆転劇を演じた桶狭間の戦いについて、出題します! | |
織田軍の強襲で今川義元が首を討ち取られた時の時刻は、何時ごろと言われているでしょうか? | |
制限時間 : 無制限 | ノーヒント! |
難易度 | |
出題数 | 3443人中 |
正解数 | 2113人 |
正解率 | 61.37% |
作成者 | よしお (ID:154) |
最高連続正解数 | 0 問 |
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正解:④
解説:桶狭間の戦いがあったこの「桶狭間」は、現在の愛知県豊明市と名古屋市緑区有松町の2箇所に古戦場跡があります。はっきりとした場所はわかりませんが、この近辺、もしくは愛知県であると伝えられています。
正解:③
解説:今川義元に一番槍をついた武将は、服部一忠(服部小平太)ですが、ひざを斬られ、一番最初に義元の首をとったのは、毛利新助でした。
正解:④
正解:③
解説:今川軍の戦力・約25,000人に対して、織田軍の戦力は約3000人と言われています。織田軍の奇襲攻撃により、総大将の今川義元は戦死しました。
正解:④
解説:桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に行われた合戦です。
正解:沓掛城(くつかけじょう)
解説:沓掛城(くつかけじょう)は、尾張国愛知郡沓掛(現在:愛知県豊明市沓掛町)にあった城です。現在は、「沓掛城址公園」として城跡が残っています。
正解:②
解説:今川義元が討たれた場所は桶狭間の中の「田楽狭間」と言われていることから、この名が別名となっています。
正解:京へ上洛するため
解説:今川義元が京へ上洛するためといわれていますが、いくつかの説があるのでないかと言われています。
正解:②
正解:②
正解:②
解説:真田十勇士(さなだじゅうゆうし)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて真田幸村(信繁)に仕えたとされる10人の家臣のことです。小説など登場していますが、人物は実在と架空がおります。
正解:六文銭(ろくもんせん)
解説:真田幸村(信繁)の旗印である六文銭(ろくもんせん)は、亡くなった人を葬る時、棺に入れる冥銭(めいせん)を表しているといわれています。この六文は三途の川の渡し賃となるようです。ちなみに永楽通宝(えいらくつうほう)は、織田信長です。
正解:④
解説:本名は真田源次郎信繁 (さなだげんじろうのぶしげ)です。真田幸村(さなだ ゆきむら)という名前は、彼の死後に小説などの作品で使われた名前です。
正解:③
正解:①
解説:真田幸村(信繁)の父・真田昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけて生きた武将です。信濃国の上田城での上田合戦(うえだかっせん)では、2度にわたって徳川軍を撃退したことで有名です。
正解:①
解説:九度山(くどやま)は、和歌山県北部に位置する町。関ケ原の合戦で敗れて、九度山に蟄居させられます。この町には伝説といわれる「真田のぬけ穴」などがあり、真田親子とのつながりの深い場所です。
正解:③
解説:幸村(信繁)は、豊臣秀頼の参戦依頼を受けて、大坂冬の陣に出兵します。この時、使者は黄金200枚、銀30貫を持参したといわれています。
正解:赤
解説:「真田の赤備え(あかぞなえ)」といわれ、真田軍は赤の鎧(よろい)で統一しました。
正解:①
正解:④