一問一答クイズ [No.12572] | |
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日本史検定 より 歴史クイズです!皆さんは日本の歴史についてどれだけ知っていますか?常識的な問題から、マニアックな問題まで、幅広い範囲から出題します☆問題制作にもご協力お願いします! | |
高度経済成長期における消費革命。三種の神器に含まれない物はどれか? | |
制限時間 : 無制限 | |
難易度 | |
出題数 | 4471人中 |
正解数 | 3311人 |
正解率 | 74.06% |
作成者 | loewi (ID:1331) |
最高連続正解数 | 0 問 |
現在の連続記録 | 0 問 ※ユーザーの方は記録が更新されます |
正解:③
正解:②
正解:①
正解:和同開珎
正解:毛利輝元
正解:④
正解:②
正解:①
正解:細川ガラシャ
正解:井伊直弼(いい なおすけ)
正解:②
正解:ハリー・S・トルーマン
正解:①
正解:①
正解:①
正解:④
正解:徳川家綱
正解:③
正解:④
正解:②
正解:②
正解:橋本龍太郎
正解:①
正解:安土桃山時代
正解:④
解説:防人は、大化の改新の後、朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦い(663年)で唐・新羅の連合軍に大敗したことを機に設置された軍事制度です。九州沿岸の防衛のために設置されました。
正解:風林火山
解説:答えは風林火山です。意味は「風のように速く、林のように静かに、火のように侵略し、山のように動じず」
正解:④
正解:④
正解:suikotennnou
正解:②
解説:1180年、平重衡の軍が南都を攻略し、東大寺、興福寺が焼失しました。
正解:重源
解説:61歳にして東大寺勧進職につき、復興を果たしました。
正解:④
正解:③
解説:岩倉遣米欧使節団の主なメンバーは、岩倉具視、木戸孝良、伊藤博文、大久保利通、山口尚房の5人。 随行した留学生として津田梅子、久米邦武、中江兆民らがいる。
正解:②
解説:佐賀の乱での中心士族は江藤新平(前参議)。なお、福岡では宮崎車之助を中心に秋月の乱が起きている。
正解:③
解説:第一次オイルショックの引き金になったのが、第四次中東戦争。OPECは原油価格を引き上げ、石油価格が高騰しました。翌年には、戦後初の経済成長率マイナスを記録しています。 第二次オイルショックの原因はイラン革命です。
正解:③
正解:②
解説:1回目の蝦夷征討が788年に紀古佐美が征東大使として、2回目が794年に大伴弟麻呂が征夷大将軍として派遣。これが征夷大将軍の初見である。ちなみに2回目の時の副将軍が坂上田村麻呂。更に3回目の派遣のときに田村麻呂が征夷大将軍になっている。
正解:②
解説:承久の乱で当時天皇だったが、まだ幼少であり即位式も挙げていない状況で廃位されたので九条廃帝、又は半帝と呼ばれていた。
正解:源義仲
解説:後白河法皇を脅して無理やり任命させた。
正解:②
解説:選択肢の中で葛城王(橘諸兄)以外は知太政官事に就任している。職封は右大臣に準じていた。ちなみに鈴鹿王は長屋王の弟であり、藤原四氏没後に知太政官事に就任し、橘諸兄の政権運営に協力した。
正解:③
解説:頼朝は権大納言が最高位。あとの方々は右大臣が最高位。ただし菅原道真は死後に怨霊思想によって右大臣に復職し、その後太政大臣にまで昇進した。
正解:②
解説:守貞親王は承久の乱後、鎌倉幕府の要請で、院(治天)となり、子の茂仁親王が後堀河天皇として即位した。この時代は院−天皇という構造が当たり前となっており、承久の乱で院(治天)の後鳥羽、及び天皇の仲恭が共に廃されたので、もとに戻すべくしたもの。しかし天皇経験者の上皇は後鳥羽・土御門・順徳が配流になったため、仕方なく守貞親王を後高倉院として立てた。
正解:④
解説:和同開珎は銅貨と銀貨の2種類発行された。
正解:①
解説:二条斉敬は幕末明治の公卿。ちなみに彼は関白(孝明)・摂政(明治)の最後となる。ちなみにその後大正天皇の摂政宮となった裕仁親王(昭和天皇)があるが、これは明治憲法下であり、それ以前とは性質が異なる。
正解:③
解説:足利尊氏だけ「義」の字がありません。
正解:②
解説:源氏3人、摂家2人、皇族4人の全部で9人です。
正解:②
正解:④
正解:③
正解:②
正解:①
正解:①
正解:②
正解:④
正解:④
正解:ヨークタウン
正解:①
正解:レイテ沖海戦
正解:①
正解:③
正解:ドーリットル空襲
正解:④
正解:③
正解:④
正解:④
正解:③
正解:1945年3月
正解:③
解説:警視庁の発表では1945年3月10日の東京大空襲による死者は8万3793人となっていますが、死者数が10万人に及ぶとする見解も多くあります。
正解:8月8日
正解:②
解説:シュムシュ島の戦闘では、日本軍は戦車を動員し、8月21日まで抗戦が続けられました。ソ連側資料では日本側死傷者約1,018名、ソ連側約1,567名と、日本軍を上回るソ連軍の人的損害を出しています。